Jul 23, 2010

更新報告[July/13/2010]

レンタルサーバーの更新に伴い、カウンター表示が未更新だったものを更新しました。ふと気が付くとそろそろ3万件アクセス。2004年5月に開始して、気が付けば6年を経過。blogを始めた頃、結婚はしないだろうな、と思っていたのに、いつの間にやら家族も増えて、乗るまいと思っていた車の免許も取って、20代の頃は、借家と持ち家とは(対価に対して)経済的便益は同じであるべきだあ、などとほざいていたのに、合理的選択の結果としてなのかは不明ですが、いわゆる"フツー"の一軒家生活にいつの間にやら恋焦れて居を構え、子育てに追われ、かけ巡っています。

20代をふりかえると、バカで恥ずかしいことばかりなのですが、やはり20代の時には、10代をバカで恥ずかしいことばかりだと思って反省していたので、そろそろ不惑と言われる年が近づき、バカは治さないと駄目なんだろうなと少し焦りもあったりしますが。

18歳で故郷を離れてから18年経過。北海道を離れてからはまだ17年なのですが、故郷を離れたという意味ではもう人生の半分を故郷以外の場所で生活した訳で。36歳は一つの折り返し地点なんだろうと、ふと思います。住処としては、故郷を含めると今住んでいる場所が7箇所目。もうしばらくは引越しをしないんだろうと。そう思うと何かしら寂しさも覚える次第。

ということで、カウンターの更新と一緒に何かを更新"した"、いや、"したい"んだろうなあ...。

人間は過去をふりかえる動物。ふりかえるから人間なんなろうなあ。

May 20, 2010

基本情報技術者試験(平成22年度春期)02

と、いうことで合格。午前試験82.5(100点中)、午後85(100点中)。六割以上で合格。合格率は20パーセント台で、昔の初級シスアドよりは、やや難しく、今のITパスポートよりは更に難しいかなというレベル。昔の同名の試験が、合格率10パーセント台だったので、易化したようだ。

午後で選択した分野は「問3データベース」「問4ネットワーク」「問5ソフトウェア設計」「問6プロジェクトマネジメント」「問7経営・関連法規」「問8データ構造及びアルゴリズム」「問13ソフトウェア開発(表計算)」

参考になるかどうかは不明だが、使用したテキストは、「基本情報技術者合格教本」(著:定平誠・須藤智、2010年)1680円のみ。初級シスアドに合格している方ならば、このテキストのみで合格します。そう新規の話がある訳ではないようです。

都道府県によっては、県内で20人程度しか合格していない県もあり、我県は800人以上合格している訳で、資格の評価は都道府県でずいぶん違うのではなかろうか、と考えている。

勉強から受験までたかだか2ヶ月程度なのだが、随分と楽しめたし、新な発見もあったので、受験料含めて、3ヶ月程度満喫できたのでよかったと考えている。

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May 19, 2010

[音楽]コスモス・ドリーム(1975年)

作詞:阿木燿子
作曲:宇崎竜童
編曲:船山基紀
歌:高梨雅樹

作詞・作曲のペアを見れば一目瞭然だが、ご夫婦で、山口百恵氏の曲をつくってきたコンビ。これに、ベテランの船山氏が編曲し、更に、このあと「秋冬」という誰もが知っている歌謡曲(「きぃ〜〜せつの、か・わぁ・りめをぉ〜、あなたのここぉ〜ろで・・」というサビ)の歌を歌っている高梨氏(歌謡曲を歌う時点では原大輔と名前を変えている)。

本当に、この曲、いいです。学生の頃は、3万円以上するCD組にしか収録されていなく、さすがにこの曲を手に入れるためだけに、CD組を買う財力はなく、指を加えているだけだったが、通常のアルバムレベルのCDに収録されていること知り、さっそく購入。

例によって、アニメを見た記憶はあるが、1974年生れの私がストーリーを理解しているはずもなく、しかし、楽曲を聞いた記憶だけはあり、ずっと聴きたい曲として胸に残っていた。♪1000年は一瞬の光の矢〜...♪過ぎてく時間は恐くない.....、何かぞくっときます。

子どもを育てるようになって思うのが、当時は、子ども向けのアニメの楽曲をきちんと作っていたんだと思うこと。

今現在、いわゆる広告媒体と呼ばれるものを眺めてみると、メディアが多岐に渡り、各企業が広告にあてる費用が、多種のメディアに分散したせいか、各メディア単体で考えると、(番組)予算が削減されている感は否めない。この事実は単に不景気ばかりが理由ではあるまい。かつてであれば、ラジオ、テレビ、新聞に加えて、チラシや街頭キェンペーンなど広告手法が限定されていたのだろうが、現代に至っては、既存メディアへの広告費のみならず、インターネットだけでも、複数のポータルサイトが割拠し、加えて、ミニコミ紙が充実し、同じ地域に複数紙発行され、今や自治体や国までも広告収入を目当てに企業利潤を貪っている現状では、企業はそれぞれに費用を薄く"かけざるをえず"、結果として各メディアは薄い広告収入を元にコンテンツを作成(あるいは、安い広告収入を甘受)せざるを得ないのではなかろうか、と考えている。いわば現代は、広告分野に関しては「企業受難」の時代なのではないか。また、そのことによって、広告の受け手である私達も総合的に考えると随分と損をしているのでなかろうか。そう考えている。

各個人が見たい番組(コンテンツ)を「買えばいい」という発想もあり、インターネット配信と、それに変わるテレビコンテンツ提供の低下は、この発想が前提となっているのかもしれないが、そもそも広告費は商品等に上乗せされているのであって、テレビのへの広告費が削減された分安くなっているのかというと必ずしもそうではなく、メディアの種類が増えただけであって、(費用に占める広告費率が一定と考えれば)もともと上乗せされている分、テレビ等のコンテンツが割り引きされた分の購買者への見返りは、恐らくは、「自分には何が欲しい商品かという、メールやウェッブページの個人ページから得られる情報」等なのであって、今はあたかもこの情報を「便利な情報」なのだ、と思い込まされているが、果して、過去30年ぐらいに培ってきたであろう文化の失地分を補填するだけの効用が、これらの情報から得られているのか甚だ疑問。単に、購買意欲をかきたてるだけの情報を、さも「自分に役に立つである情報」と勘違いし、これまでの仕組みの大きい部分を失っているかもしれない、と思うと、それはそれで残念な気持ちになる。

そもそもテレビなど、と蔑む向きもあろうが、やはり、これまでテレビは文化の担い手として重要だったと考えているし、これからも、そう大きくは変らないと考えている。それが証拠に、インターネットで配信されている動画コンテンツに独自のものは少なく、実際のところ多くは、過去の映画かテレビのコンテンツをインターネットで配信しているのだから。皆が「ナツメロ」で納得する世の中なら良いが、これから生れてくる世代は、親が子どもの頃の映像を再び見続けるだけなのだろうか。確かにこれまでに蓄積されたコンテンツの量はそれなりに膨大だと思うが.....。

とにもかくにも、このような事態を背景にして、広告収入をテコにして成り立っていたであろう民法各局が作成していた各種番組が軒並予算が削減されているらしく、実写で手間暇かけて写していたシーンがアニメ化・CG化し、音楽は、生楽器の録音ではなく、いわゆる"うちこみ"と呼ばれる音楽が氾濫し、子育てをしている私としては、ともて今のアニメや特撮の音楽の中には、子どもには聴かせられない、と思うものがある、と感じている今日この頃。

その中で、頑張っていると感じるのが、実際NHK(教育)なのだが、かつて私が子どもの頃は、入学前の子ども向け番組は、「おはようこどもショー」(日本テレビ)「ひらけ!ポンキッキ」(フジテレビ)「ママとあそぼうピンポンパン」(フジテレビ)「ロンパールーム」(日本テレビ)など、私が記憶があるだけでも多数あり、もちろん団塊ジュニア世代の需要に合わせたであろう事実は否定しないが、それぞれ伝説の番組で、今も語り継がれるであろう"優れた番組"は、NHKだけでなく、民法にも多数存在した訳で、これはNHKだから、民法だから、というよりも、もっと根本の部分で、どうしようもない何かが変化しているのではなかろうか。

と、いったところで、恐らくは、今の子どもたちは、子どもたちなりの文化環境の中で育つのであって、恐らくは、私が子どもの頃も、「8時だよ全員集合」がPTAから不推薦番組として認定され、見てはいけない番組と言われなが、子どもたちは、これを見て、楽しみ、今やその番組が国民誰しもが評価し、絶賛する番組となっているのだから、今心配することは杞憂に終るのかもしれないが。

ということで、1000年女王のオープニング曲は良いです。と、いうことで。

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Apr 19, 2010

基本情報技術者試験(平成22年度春期)01

ということで、受験。今は試験区分そのものが廃止されてしまったのだが、「初級システムアドミニストレータ」という試験には合格している。今回は同じ国家試験なのだが、もう少し難しいという言われている「基本情報技術者試験」に取り組んだ。受験会場は私よりも10歳以上若い方達が大半だったが、中には、60〜70歳台の方も散見された。

受験したその日に公式サイトで正解が発表されるのが今時。

自己採点は、午前試験が66問正解(80問中)=>66×1.25=82.5点、午後試験が37問正解(44問中)84%正解。午後試験は。配点の詳細が不明だが、6割で合格とのこと。

2月ぐらいに、資格マニアの血がさわぎ、急に思いたってテキストを購入し、申し込み。子育ての最中なので、仕事が終って、子どもが寝しずまってから、時間がある時に発泡酒を飲みながら、テキストをパラパラ繰る。出題範囲は、初級シスアドとかなりの割合かさなっているので、復習といったところ。

以前は、基本情報技術者と言えば、プログラマーの資格だったのが、今はプログラム言語の問題に、C言語やアセンブラなどの他に「表計算」が追加されたため、私のような文系でプログラマーでも無い人間が受験可能となっている。逆に、昔はメジャーだったFORTRANが、言語から消えていたりする。

プログラムと言えば、小学生の時によく、BASICでプログラムを組んで遊んでいたが、遊びでコンピュータプログラムを組むというのは、今考えると楽しい経験だっただ、と思う。これは私に限らず、パソコンと言えば、インターネットができる箱なのじゃなくて、自分でプログラムを組んで、時には高いゲームソフトを買って楽しむ装置だった訳で、パソコンに触れる機会のあった人は同じだったと思う。

合否はあと1ヶ月先だが、さてどうなることやら。

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Nov 20, 2009

[本]図書館が教えてくれた発想法(著:高田高史、2007年)

僕が生れ育った町は、どちらかと言えば小さい町で、少なくとも子どもの頃は図書館が無かった(今はあります)。図書館が無くて、もちろん司書という専門職の職員もいない。人口数千人の町というのは、どこも似たようなものだと思うのだが、複合施設的な公民館と呼ばれる建物があって、そこに教育委員会事務局があって、教育委員会事務局が公民館の管理もしていて、教育長が公民館館長を兼務していて、公民館に、町民ホールと呼ばれる文化施設的なものがあって、もちろん、そこでは成人式なんかをよくやっていて、でもって、「図書室」がある。図書館が独立した建物として存在するのは少ないのではなかろうか。

自分が住んでいる町しか知らないと、そのあり方が全国津々浦々まで同じであるかのような錯覚に陥いるが、そんなことはない。図書館がそもそも無い自治体だってあるってことを大きな街にしか住んだことのない人は知らない。で、小さい自治体は、本屋さんもない。実際、僕の住んでいた町は、本当に小さい本屋さんが一件あったけど(今は無いです。つまり一件もない。)、基本的に注文(取り寄せ)。本屋さんにぷらっと行って好きな本を選ぶ、なんてことはできない。だから、開架式の公共図書館はとってもとっても大事な場所。で、僕の小さな頃の図書館のイメージというのは次のよう。

まず、思い出は、飛び出す絵本。ポップアップ絵本ってやつ。飛び出す絵本に初めて出会ったのが公民館の図書室。これが、すっごく楽しい。カウンターにはいつもだいたい同じ人がいて声をかけてくれる。図書室の一角には、カーペット敷の小あがりがあって、そこで寝そべって本を読む。図書室っていっても、普通にマンガもある。だって、本屋さんがないんだもん。単行本のマンガすら、車で30分ぐらいかけて隣街に行かなきゃ買えない。マンガを買おうと思うと、「予約」しなきゃならない。並んでいるマンガはいつの発刊が分らない年代もの。毎週確実に買えるマンガは、週間マンガぐらい。だから、色んなマンガが読める公民館の図書室は子どものたまり場。図書室には、将棋とか、オセロとか、おてだまとか、子どもの遊び道具もいっぱいあった。本を読んで、あきたら、将棋して、また本に戻る。漫画も読むけど、学研のひみつシリーズとか、楽しく学べるものも数多くあった。子どもって、遊びと勉強との境目が微妙。だからそんなの区別しなくって、自由自在に行き来できる場所がいいんだと思う。

で、自分達で、色々考えて遊んで、本を読んでいたんだけど、カウンターにいたのは専門職の人じゃない。本の探し方を習った訳じゃなくて、小学生の頃は、よく、特許の本や発電方法の本を借りていた。やはり専門家の誘導がなかったので、随分まわり道をしたんじゃないかと思う。

この本を読んで、久しぶりに故郷の「図書室」のことを思い出した。"子ども"の利用方法が良い例なんだけど、みんな図書館に「特定の本を探し」に行っている訳じゃない。図書館は無料貸本屋じゃない。無料貸本屋だったら、とっとと図書館なんて廃止すればいい。税金で運営する理由はない。でも、実際はそうじゃない。みんな知識を求めている。僕が子どもの時に、図書館にどうして足を運んだか。特定の読みたい本があって、それを無料で借りられるから行っていた訳じゃない。何かを知りたい。あるいは、僕が知りたいのは何か。もやもやしたこの知への欲求を整理してくれる場所。それが図書室(図書館)だったんだと思う。

で、どうして、公(おおやけ)で図書館を運営しなきゃならないか、そもそものことを考えるヒントが、この本にはいっぱいつまっている。

図書館での仕事って、多分僕はほとんと知らない。でも、この本は、日記形式で、図書館の一日を教えてくれる。こういう図書館だったら、行きたいな、あるいは、こういう仕事だったら、図書館で働いてみたいな、と思える、そういう一冊。

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Nov 01, 2009

[本]経済学の歴史(著:根井雅弘、2005年、講談社)

ふと、実家に帰る際、空港で立寄った書店で、何故かバーゲンをしていて、思わず買ってしまった一冊。

経済学説史と言えば、学生の頃に講義を受けたはずだが、もう、それは十数年以上前の話で、やはり使わない知識は消えてしまい、残った知識は自分の都合のよいように純化されてしまう。それを、改めて仕切り直すにはよい一冊だった。

(それそのもので生計を立てるという意味での)プロの経済学者を志していた頃であれば、それぞれの経済学者の経歴を自分の置かれている状況に準えて、自分の置かれている境遇との共通点を見い出しほくそえむこともあるのかもしれないが、そのようなことをして満足できる程若くもなく、プロの経済学者列伝という意味では、ただ淡々と、そういう人もいるのか、というだけのことなのだが、それはさておいても、学説の流れは興味深く、面白い一冊だった。

やはり、最近とみに思うのが「競争」ということに対する認識である。しばしば新聞紙上で論議があったのが「競争=悪」という話で、いわゆる「ゆとり教育」の一つの表出形態とでも言うのか、小学校の徒競走で順位をつけないとか、お遊戯で主人公が交代制だとか、とにもかくにも、「競争させない」、「順位をつけるのはよくない」、という雰囲気があった。しかし、同時並行的に、大人の社会では、「競争=善」という雰囲気が漂い、規制緩和が進み、あるいは行政が行っていた部門にも競争性を導入すべきだ、あるいはそもそも地方自治体に至っては、地域間競争ないし自治体間競争をすべきだ、という議論まで巻き起こることになる。この二つの、一見相反する思想的ベクトルの根底にあるものを探しあてるのが、社会について考える人間の役目だと思うのだが、未だその解答は得ず。しかし、後者の「競争=善」(という、思い込みにすぎない単純化された図式)については、経済学が、誤解をもって世間にその基本的な知識を流布した責任が大いにある、と、しっかりと訴えたい。

経済学において、競争とはどのような状態を指すのか。本書を読めば、その認識は固定ではなく、それぞれの時代の経済学によって異なるし、異なるべきだと思う。 学説史を学ぶといいうのは、今おかれている学問の潮流を読み解くというだけでなく、それぞれの時代に生きた経済学者たちが、どのようにして社会現象と格闘したか、それを思い知り、また、自らの立場を再度認識する、とてもよい機会を与えてくれるのだと思う。

Oct 10, 2009

[本]青年ヒトラー(2009年、著:大澤 武男、平凡社)

ふと、目について、手にとった本。

ヒトラーと言えばナチスドイツ。アウシュビッツ収容所、毒ガス、ユダヤ人迫害、...と教科書に並ぶキーワードしか想起されなかったのだが、この本を読む前の私のイメージ。この本を読むと、青年期のヒトラーの姿を知ることができる。そこには、青年期の、社会に対する不満や、片思いが成就しない悔しさ、興味のあるものを追及する探究心、などなど、普通の若者像を読んで取れる。

元々、ヒトラーの「我が闘争」をいつかは読まねば、と思っていた。というのは、高校の恩師が、彼の「我が闘争」は、彼がいかにして、民衆をひきつけたか、その理由が読んでとれる。と、いうようなことを世界史の授業で聞いて、読みたいと思っていた。その思いが、もう20年来片隅にあって、ふと新書で、関連本が目について、買ったというのが経緯。

アドルフ・ヒトラーのことを「独裁者」と普通の人は言うし、私も彼は独裁者だと思うし、この本を読んでもなお、彼は独裁者だし、弁護する余地は無いのだが、しかし、彼の青年期は至って普通なのだ。一風変わった青年が、独裁者になるべくして、独裁者になった、という分析を聞いても、「へえ」というだけだが、実はそうではなくて、普通の青年が、色々な偶然を契機として、独裁者になってしまった、というと、これは話が違う。恐らく彼は、"独裁者になってしまった"という表現が一番しっくりくるのではなかろうか。

青年期のヒトラーは、まともな職業につかず、絵(建築画家)の世界で生計を立てることにあこがれて、一方で、オペラ観賞などをするという生活で、生活そのものは規律正しく、つつましやかだったようだが、そのような切迫感の無い生活が可能だったのは、家に財産的な余裕があったからで、彼は貧乏のどん底からはいあがってきた人間では無いことが読んでとれる。現世であれば、「お前は、生意気言ってるけど、何だかんだいって、おぼっちゃん育ちだねぇ」なんてひやかされて終わり、なのだろうが、彼は第一次世界大戦という、世界的な一大事件に身を投じることなり、そこで、一人の伝令兵として名声を得ることになる。この若者期の大きな経験が、彼の人生を方向付けていったのだろう。

本著作は、青年期の記述が中心なのだが、若者期のヒトラーとの人のつながりということで、総統になって以後の記述もある。その中で、ユダヤ人迫害についての、筆者の考えがあるのだが、筆者に考えでは、要約すると"彼は、別段ユダヤ人が嫌いだった訳ではないし、迫害したかった訳でもない。ただ、ユダヤ人を悪者にすると民衆に受けた。それだけの理由で迫害したのだろう"ということだ。この考えは、私は今まで持ったことがなかったし、ある意味、一つの衝撃だが、この本を読んでよかったとも思った瞬間でもあった。

独裁者はどのようにして、独裁者となるのか。ヒトラーは少し変ったところはあったが、普通の青年。どの能力に長けていたのか。

本著作を読んだ感想の範囲で、独裁者形成の要素を抜き出せば、(1)何を言えば、民衆がついてくるかを、瞬時に感じとることができる(2)民衆がついてくることが、喜びである(あるいは、民衆がついてくることが、何らかの"自らが思い込んだ"事象(それは最終的には民衆を悲劇に導くことになるかもしれないが)を変革する必要不可欠の要因だと思い込むことができる)、という二点ではなかろうかと思う。

(1)の要素だけでは独裁者にはなれない。何故なら、民衆がついてくる発言というのは、必ずしも理性的でないし、時として現実的ではないし、実現性に乏しいことすらある。理性的な人間であれば、民衆がついてきても、どこかの段階で、実現が困難であることに気付き、熟慮し、自らの発言の未熟さに気付き、撤回すらすると思われる。

独裁者になるには、(2)の要素がとても大事なのだと思う。冷静に状況を判断し、仮に民衆がついてくるプロパガンダ等であっても、全体の状況を考え、総合的に判断した結果、現実的ではない、ということが普通だろう。例えば、「税金は全部無しです。公務員は奴隷です。」と言えば、民衆は揺動されるかもしれないが、そもそも、そんなことは現実的でない。しかし、民衆を引き付けることが喜びの人間は、分析はどうでもよくって、とにかく自らが感じとった民衆の雰囲気をベースに、これを更に推し進め、あげくの果てに、「タダ働きしない公務員は処刑します」と言うかもしれない。それは言うかどうかは(1)の能力。(2)という性格がベースにあって、(1)の能力が備わっている人間が独裁者になる、ということか...素朴分析ならば。実際、そんな、単純じゃないけど...。

ヒトラー....。チャップリンの映画(「独裁者」)は、DVDも、VHSテープも持っていて、何度も見てるのだが、本当に今考えるとすごいって思う。気を張って何かを訴えるというのは、辛抱なんだろうなあ。

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